仕事柄なのか、性格からか、“死”について考えることが多いです。
特に人間の“死”に、許されるものと許されないものがあるのかという問題について考えてしまいます。
人に迷惑をかけなければ……という身もふたもない容認論以外にも、どうやら許されない死に方があるようなのです。
医師による自殺幇助や安楽死は法律で禁じられています。もちろん誰もそんなことをすすんでしようとする人はいません。本やニュースで聞く、この罪に問われている人には、それなりの事情があります。でも、どうして「それなりの事情」ではダメだったのでしょう?
実際にはもっと詳細な要件がありますが、今回は前回取り上げた記事の中で触れられている死期を早める行為が容認される要件についてあげると以下の様になります。
①その行為が生命の短縮を意図しているものではないこと
②本人の意思の表明や家族の同意
③緩和ケアチームや倫理委員会等の集団的協議
そして、上記の過程は繰り返し確認され、拙速に行われないこと。
上記のうち、本人や家族の意思にそった方針じゃないとダメというのも分かるし、独断に陥らないようにみんなで話し合いを重ねましょう、ということもある程度納得できるのですが、なぜか①だけひっかかるのです。
前回の女性の例で言えば、持続的に鎮静をすれば、死ぬことが分かっていても、それは生命の短縮を意図していると言わないのでしょうか?
この点について、考察に以下のような一文があります。
“The bad effects can be forseen but cannot be intended.” (声明に対する)悪影響は予見されることはあっても、意図されてはならない。
私が誤った解釈をしているだけなのかもしれませんが、単なる言葉の遊びのような気がどうしてもしてしまいます。
それでも、耐え難い痛みの中で彼女が生き延びるべきであったとも思えません。この点には「人間らしい」生き方や死に方という問題が関係してくるのだと思います。
やはり、どう考えても、どんなに練られた原則を見ても、こうした問題に関しては葛藤が止みません。
そして、この臨床報告の最後の段落には次のような一文があります。
“Principle-based ethics are an important part of ethical reasoning, but in the end, principles do not make decisions; people do.” 原則に基づく倫理は倫理的思考の重要な部分であるが、結局、原則が決定をしてくれるわけではない。人間がそれを行うのである。