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『精神療法家の仕事』 成田善弘著


私は自分のことを精神科医とは思っていても、きっちりと精神療法家とか、薬物療法家とか決めることができず、目の前の患者さんに必要なことは何かを考えながら、その二つの間を行ったり来たりしているような気がします。

この本の著者の成田先生はご自身のことを精神療法家と定義し、立ち位置を明確にした上でこの本を書かれています。読み始めて間もなくあまりの率直さに、感情を動かされました。

その中には少しの動揺も含まれています。ここまで何のてらいもなく、必要と思うことをそのままに書いてくださる先輩の存在が、有りがたく思えると同時に、自分にはこういう心境に至ることが最後までできないのではないかという心の揺れのようなものがありました。

単純に言えば、「ここまでは普通書けないよな……」と思ったのです。

序の冒頭を抜粋させてください。

「精神(心理)療法家の仕事といえば患者(クライエント)との面接であろう。しかし実は面接以前の仕事、面接をその周囲から支える仕事がたくさんある。本書では面接そのものはもちろんふれるけれども、面接以前の、あるいは面接周辺の仕事にもできるだけふれてゆきたい。また、精神療法という仕事のいわば道具でもある面接者自身についても考えてゆきたい。」

面接以前の仕事、あるいは療法家以前に人間としての態度、そういった部分に多くの記述が割かれています。そして、著者が患者(クライエント)さんと向かい合う姿が目に浮かぶように具体的な説明がなされています。

例えば、席の位置について述べた次のような記述があります。

「入室したら患者が私の正面に座り、同伴者がその周囲の椅子に座ってもらう。通常の医師の診察室では患者用の椅子が医師の前にあり、他の椅子はそのうしろにあることが多いが、同伴者が患者からは見えないうしろに座るのは避ける。患者の言葉を同伴者が訂正したり批判したりすることはよくあるが、その場合見えないうしろから批判がとんできては患者も落ち着かないであろう。」

このように「私はこうしている。それはこのように考えるから。」という著者の実際に行っている診療に即した現実的な記述と、その理由という構造をとっている部分が多く、とても参考になります。そして、その通りにはしないときにも「私はそのようにしない。なぜならこう考えるから。」と反論の余地が残されているような気がします。そして、本来の指導とはそうあるべきだと思うのです。

また、最後の「精神療法という仕事のいわば道具でもある面接者自身」というところを読んで、自省録という本の中にある「私の知能はこのことに充分か否か。もし充分ならば、私はこれを宇宙の自然から与えられた道具としてその仕事に用いる。」という記述を思い出しました。

おそらく全くレベルの違う話だとは思いますが、私も自身を道具としてとらえたときに初めて治療に集中できるような気がします。おそらく、自分へのこだわりのようなものが、人の話を聞くときにも、相手にあった治療を考えるときにも邪魔になるのだと思います。

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